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錦木 塚五郎(にしきぎ つかごろう、生年不明 - 1842年8月16日〈天保13年7月11日〉)は、四賀峰部屋(同郷の四賀峰東吉が運営した部屋)→二所ノ関部屋に所属した元力士〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3325&l=j〕。 本名は八木とのみ伝わっている。身長、体重は不明。出身地は現在の岩手県花巻市(旧・陸奥国稗貫郡)。 最高位は西小結。盛岡藩の抱えであった。 1831年11月初土俵(二段目〈現在の幕下〉)。1835年11月東二段目8枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。その場所、8勝0敗1預の無敗の好成績で、優勝相当成績を挙げた〔。その後十両でもたつくも、1839年3月場所で6勝2敗2休の成績を挙げ、十両で2度目の優勝相当成績を挙げた〔〔この場所では東十両5枚目の小柳常吉が6勝3敗1分、西十両8枚目の十文字が6勝1敗2預1休の成績を挙げているが、番付上位により錦木の優勝とされた。〕。翌1839年11月場所で新入幕を果たし、5勝0敗2休2分1預と無敗だった。次の1840年2月場所も西前頭筆頭に上がりながらも、8勝1敗1分(5日目に稲川政右エ門に負けるまでは、入幕以来9連勝だった〔天保11年春場所 大相撲星取表サイト〕)と好成績を挙げた。だが両場所とも後に横綱に昇進する者に優勝をさらわれた(1839年11月…天津風雲右エ門〈当時、西小結で6勝0敗2休2分。後の第9代横綱・秀の山雷五郎〉、1840年2月…不知火諾右衛門〈当時、西大関で8勝0敗2休。この場所後横綱免許を貰い、第8代横綱となった〉)。次の1840年11月場所後に小結に昇進したが、それまでの快進撃とは裏腹に5割前後の勝率まで落ち込んだ〔。1842年2月場所後の7月11日に、現役のまま死去。生年は不明だが、初土俵から逆算すると30~40代だったと見られている。 幕内通算 6場所、26勝10敗11休8分2預1無の成績を残した。優勝相当成績2回(十両時代の1835年11月,1839年3月場所)。歌川国貞によって錦絵が現存しており、江戸東京博物館に収蔵されている〔江戸東京博物館:収蔵品検索 - 東京都歴史文化財団 ※資料番号94200395が錦木の錦絵である。〕。十両時代は幸運に恵まれたが、幕内では一転して不運になった土俵人生だった。 改名歴は1回ある:三ツ鱗 → 錦木〔 余談だが、兄がおり同じ三ツ鱗の四股名を名乗っていた事がある(但し、幕下止まりのまま引退)。 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「錦木塚五郎 (2代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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